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食談のご報告


グルメ海の印象派おのみちの「食談」に参加しました。
ゲストに作家森まゆみ先生をお招きし開催致しました。

10月13日(水)18時30分
から魚信で開催しました。

参加費は10000円で飲み物オール込。
森まゆみ先生は東京の歴史的建造物の保存運動にかかわってこられました。


食談の中で松林がコーディネーターをして尾道小唄と尾道ばやしを唄ったりして和やかな会になりました。

森まゆみ先生には「古い建物は古い友だち」という演題で30分の基調講演を行って頂き、そのあとお食事をしながら参加者の質問にお答え頂きました。
大ホールでお話を聴く有名講師を少人数で囲むという大変贅沢な企画で予定時間を超えて盛り上がりました。

お料理もオコゼ薄造り・オコゼ唐揚げ・世羅牛ヒレステーキの8品という豪華さでお楽しみ頂きました。

森まゆみ先生やご参加の皆様御遠方より泊りがけでお越しいただきまして本当に有難うございました。



 



東京遺産


                                                   


森まゆみ様


尾道、魚信旅館 (1999)

6月28日の林芙美子忌というのに招かれてYと一緒に尾道へ行く。
駅のそばのアーケードに、あじさいに埋まった銅像がある。露天で出ているタコの天ぷらや瀬戸内の魚にひかれる。

ともかく仕事をすまし、帰りは芙美子の住んだ家のあとや小学校、港の景色を楽しむ。そして海沿いの道を歩くと、そこが今日の宿。魚信旅館だった。お疲れでしょう、さあさあ、と通された部屋は海に面して、紺青の空と青が広がっていた。この絶景を眺めて、瀬戸内の魚を食べ冷酒を飲む。最高だ。

船の行き来するのを眺めて、あれは夜遅くまでやっているの、と聞くと「一銭ポッポ」といって島の人の足ですから10時過ぎまであります、というので乗りにいった。帰りにはどこかのホテルのラウンジで海を見ながら「女港町」をカラオケで歌った。

森まゆみ
2003年6月9日(月曜日)公開


『東京遺産』

―保存から再生・活用へ―

私は旅をするとき鉄筋コンクリートの大旅館、大ホテルには泊まらない。三階建ての木造旅館とか、江戸期の旅籠、クラシックホテルなどをさがす。例を挙げれば、白布温泉・中屋、長野善光寺門前・富士屋、足助(あすけ)・玉田屋、尾道・魚信旅館、川越・佐久間旅館など。ホテルでは、軽井沢万平ホテル、箱根富士屋ホテル、奈良ホテル、日光・金谷ホテルなどはやや分不相応だが、一度は泊まってみたいと思い、その夢をかなえた。他にはお金をつかわないからこういうときはゼイタクする。といっても新しい豪華な宿より高いわけではない。

新しく清潔な建物や設備を好む人の方が多数派だろうが、私は、古い落ちついた宿の方が忙しい日々の生活を忘れ、ゆっくりくつろげる。そのうえ、何十年前の棟梁や左官の仕事が見られ、床の間にかかる軸や食器なども年代を経ていて味わい深い。古い町には蔵を改造したジャズ喫茶や、遊郭の建物をバーにした所などもあって、夜はそこで時を過ごす。

森まゆみ著(岩波新書)より

古い建物は古い友だち
p188の11行目からp189の6行目まで引用

          

クリックで拡大します。東京遺産表面 東京遺産裏面
2007年4月12日



著者の森まゆみ様のご紹介
1954年東京に生まれる
1977年早稲田大学政経学部卒業
現在――作家・地域雑誌編集者
著書――『鴎外の坂』(新潮社)(鴎外の鴎はメではなく品です)
『大正美人伝』(文藝春秋)
『明治東京奇人伝』(新潮文庫)(奇人の奇の左に田がつきます)
『一葉の四季』(岩波新書)
『「即興詩人」のイタリア』(講談社・JTB紀行文学大賞)
『ひとり親走る』(講談社)
『抱きしめる、東京 町とわたし』(講談社)
『のほほん親本舗』(学陽書房)
『東京遺産―保存から再生活用へ』
『プライド・オブ・プレイス』(みすず書房)
『婦人公論』にみる昭和文芸史(中央公論新社)
『彰義隊異聞』(新潮社)
『円朝ざんまい』(平凡社)
『森の人 四出井綱英の九十年』(晶文社)
『自主独立農民という仕事 佐藤忠吉と「木次乳業」をめぐる人々』
(バジリコ株式会社)
外多数。

『谷中・根津・千駄木』の編集人。
NHK人間講座の講師として
「こんにちは一葉さん―明治・東京に生きた女性作家」のテーマで出演。
(2003年12月~2004年1月期)

くまのかたこと 旅の宿編より許可を得て掲載させて頂きました
 
谷根千ねっとのホ-ムページ
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尾道ゆかりの文学名作

暗夜行路


志賀直哉著より

前編二

(続き)
彼は茶店の主から聴いて、先頃死んだ商家の隠居が住んでいたと云う空家を見に行った。結構朽葉の散り敷いたじめじめした細道を入って行くと、大きな岩に抱え込まれたような場所に薄暗く建てられた小さな茶室様の一棟があった。が、それが如何にも荒果てていて、修繕も容易でないが、それより陰気臭くてとても住む気になれなかった。彼は又茶店まで引きかえして、石段を寺の方へ登って行った。大きな自然石、その間に頑丈な松の大木、そして所々に碑文、和歌、俳句などを彫りつけた石が建っている。彼は久しい以前行った事のある山形の先の山寺とか、鋸山の日本寺を想い起した。開山が長崎の方から来た支那の坊主というだけに岩や木のたたずまいから、山門、鐘楼、総てが、山寺、日本寺などよりも更に支那臭い感じを与えた。玉の岩というのはその鐘楼の手前にあった。小さい二階家程の孤立した一つの石で、それが丁度宝珠の玉の形をしていた。

鐘楼の所からは殆ど完全に市全体が眺められた。山と海とに挟まれた市はその細い幅とは不釣合いに東西に延びていた。家並もぎっしりつまって、直ぐ下にはずんぐりとした煙突が沢山立っている。酢を売る家だ。彼は人家の少しずつ薄らいだ町はずれの海辺を眺めながら、あの辺にいい家でもあればいいがと思った。

暫くして彼は再び、長い長い石段を根気よくこつこつと町まで降りて行った。その朝、宿の者に買わした下駄は下まで降りると、すっかり鼻緒がゆるんで了った。

不潔なじめじめした路次から往来へ出る。道幅は狭かったが、店々には割りに大きな家が多く、一体に充実して、道行く人々も生々と活動的で、玉の岩の玉を抜かれた間抜けな祖先を持つ人々には見えなかった。

彼は又町特有な何か臭いがあると思った。酢の臭いだ。最初それと気付かなかったが、「酢」と看板を出した前へ来ると一層これが烈しく鼻をつくので気付いた。路次の不潔な事も特色の一つだった。瓢箪を下げた家の多い事も彼には珍らしかった。骨董屋、古道具屋、又それを専門に売る家は素より、八百屋でも荒物屋でも、駄菓子屋でも、それから時計屋、唐物屋、印判屋のショー・ウィンドウでも、彼は致る所で瓢箪を見かけた。彼は帰って女中から宿の主も丹波行李に幾つかの瓢箪の持主だと云う事を聴いた。

その晩彼は早く寝た。そして翌朝未明に起きると、未だ電燈のついている掃いたような往来を番頭に送られて近い船つき場へ行った。霜が下りて寒い朝だった。

内海の景色は彼が想像した程にはよくなかった。丁度上げ潮時で、海水が東へ東へと落ちつきなく苛波を立て立て流れている事などが一寸不思議に思えた。

高浜と云う処で下りて、汽車で道後へ行って、彼はこ其処で二泊した。そして又同じ処から船に乗り、宇品で降り、広島から厳島へ行った。尾の道より気に入った処があれば彼は何処でもよかったが、結局四日目に又尾の道へ帰ってきた。

淡い旅疲れで、彼は気分も頭もいい位にぼやけていた。荷はまだ着いていなかったが、翌日千光寺の中腹の二度目に見た家を借りる事にして、彼は町から畳屋と提灯屋を呼んで来て、畳表や障子紙を新しくさせた。


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前編三

謙作の寓居は三軒の小さい棟割長屋の一番奥にあった。隣は人のいい老夫婦でその婆さんに食事、洗濯その他の世話を頼んだ。その先に松川という四十ばかりのノラクラ者がいて、自分の細君を町の宿屋へ仲居に出して、それから毎日少しずつの小使銭を貰って酒を飲んでいると云う男だった。
(千光寺山荘の続きに戻る)

彼の家は、表が六畳、裏が三畳、それに土間の台所、それだけの家だった。畳や障子は新しくしたが、壁は傷だらけだった。彼は町から美しい更紗の布を買って来て、そのきたない処を隠した。それで隠しきれない小さい傷は造花の材料にする繻子の木の葉をピンで留めて隠した。兎に角、家は安普請で、瓦斯ストーブと瓦斯のカンテキとを一緒に焚けば狭いだけに八十度までは温める事が出来たが、それを消すと直ぐ冷えて了う。寒い風の吹く夜などには二枚続の毛布を二枚障子の内側につるして、戸外からの寒さを防いだ。それでも雨戸の隙から吹き込む風でその毛布が始終動いた。畳は表は新しかったが、台が波打っているので、うっかり座りを見ずに平ったいらっきょうの瓶を置くと、倒した。その上畳と畳の間がすいていて、其処から風を吹き上げるので、彼は読みかけの雑誌を読んだ処から、千切り千切り、それを巻いて火箸でその隙へ押し込んだ。
(中略)

外から声をかけて、隣の婆さんが恐る恐る障子を開けた。夕食の飯を持って来たのである。そして彼が何も菜の用意をしてないのを見ると、
「でべらないと焼きやんしょうかの」といった。
彼には殆ど食欲がなかった。
「後で食うから其処へ置いてって下さい」

婆さんはお櫃を其処へ置いて帰ると、又湯がいたほうれん草を山盛りにつけた皿を持って其処へ置いていった。
(中略)

支度は早かった。となりの老夫婦も手伝って一時間たらずで総ては片付いて了った。婆さんは荷造りを手伝い、爺さんは電燈会社や瓦斯会社などの払いに廻った。

尾の道には急行は止まらなかった。彼は普通列車で姫路まで行き、そこで急行を待つ事にした。

午少し前、彼は老夫婦と重い旅鞄を下げた松川に送られて停車場へ行った。
大袈裟に三角巾で頬被りをした謙作が窓から顔を出していると、爺さん、婆さんは重い口で切りに別れを惜んだ。彼もこの人達と別れる事は惜しまれた。然しこの尾の道を見捨てて行く事は何となく嬉しかった。それはいい土地だった。が、来てからの総てが苦しみだった彼にはその苦しい思い出は、どうしてもこの土地と一緒にならずにはいなかった。彼は今は一刻も早くこの土地を去りたかった。
(中略)

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清兵衛と瓢箪
(前略)
清兵衛のいる町は商業地で船着場で、市にはなっていたが、割りに小さな土地で二十分歩けば細長い市のその長い方が通りぬけられる位であった。だから例え瓢箪を売る家はかなり多くあったにしろ、殆ど毎日それを見歩いている清兵衛には、恐らく総ての瓢箪は目を通されていたろう。
(後略)

(2003年は生誕120年に当ります。)
年譜
1883年2月20日宮城県石巻市に、父志賀直温。母銀の次男として生まれる。
1912年二十九歳九月父との不和により、尾道に住み、『時任謙作』(『暗夜行路』の前身)の執筆を始めた。十二月帰京。
1913年三十歳一月、尾道に戻る。『清兵衛と瓢箪』を読売新聞に発表。四月尾道より帰京。
1971年八十八歳にて死去。


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放浪記

林芙美子著
第三部 
(八月×日)
(中略)
尾道へ着いたのが夜。

むっと道のほてりが裾の中へはいって来る。とんかん、とんかん鉄を打つ音がしている。汐臭い匂いがする。

少しもなつかしくはないくせに、なつかしい空気を吸う。土堂の通りは知った人の顔ばかりなので、暗い線路添いを歩く。星がきらきら光っている。虫が四囲いちめん鳴きたてている。線路草の白い花がぼおっと線路添いに咲いている。神武天皇さんの社務所の裏で、小学校の高い石の段々を見上げる。右側は高い木橋。この高架橋を渡って、私ははだしで学校へ行った事を思い出す。線路添いの細い路地に出ると「ばんよりはいりゃせんかァ」と魚屋が、平べったいたらいを頭に乗せて呼売りして歩いている。夜釣りの魚を晩選りと云って漁師町から女衆が売りに来るのだ。

持光寺の石段下に、母の二階借りの家をたずねる。びちょびちょの外便所のそばに夕顔が仄々と咲いていた。母は二階の物干しで行水をしていた。尾道は水が不自由なので、にない桶一杯二銭で水を買うのだ。

二階へ上がって行くと母は吃驚していた。

天井が低く、二階のひさしすれすれの堤の上を線路が走っている。黄いろい畳が熱い位ほてっている。見覚えのある蓋のついた本箱がある。本箱の上に金光様がまつってある。行水から出てくると、たらいの水に洗濯物を漬けながら、母は首でもくくりたいと云う。

義父は夜遊びに行って留守。ばくちに夢中で、この頃は仕事もそっちのけで、借銭ばかりで夜逃げでもしなければならぬと云う。

私は、帯をといて、はだかで熱い畳に腹這う。上りの荷物列車が光りながら窓の先を走っている。家がゆれる。

押入れも何もない汚い部屋。

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(八月×日)
(中略)
障子を閉めて、はだかで、チェホフの退屈な話を読む。あまり暑いので、梯子段の板張りに寝転んで本を読む。風琴と魚の町、ふっとこんな尾道の物語を書いてみたくなる。

母は掃除を済ませて、白い風呂敷包みの大きい荷物を背負って商売に出掛ける。

階下のおばさんが、辛子のはいったところてんを一杯ごちそうしてくれる。そろそろ宮さんがお通りじゃンすでエ・・・近所の女衆が叫んでいる。

轟々と地ひびきをたててお召し列車が通る。障子の破れからのぞくと、窓さきの堤の上に巡査が列車に最敬礼をしている。巡査の肩に大きいトンボがとまっている。
(中略)
あんまり暑いので、母と夜更けの浜へ涼みに行き、多度津通いの大阪商船の発着場の、石段のところで暫く涼む。露店で氷まんじゅうや、冷し飴を売っている。暑いので腰巻一つで、海水へはいる。浮きあがる腰巻きのはじに青い燐がぴかぴか光る。思い切って重たい水の中へすっとおよいでみる。胸が締めつけられるようでいい気持ちだ。

暗い水の上に、小舟が蚊帳を吊ってランプをとぼしているのが如何にも涼しそうだ。雨上がりのせいか、海辺はひっそりしている。

千光寺の灯が、山の上で木立の中にちらちらゆれて光っている。

(八月×日)
(中略)
尾道へ戻った事を後悔する。

ふるさとは遠くにありて想うものなり。たとい異土の乞食となろうともふるさとは再び帰り来る処に非ずの感を深くするなり。
 
死にたくもなし、生きたくもなしの無為徒然の気持ちで、今日もノートに風琴と魚の町のつづきを書く。
(中略)
一生懸命、ノートに私ははかない事を書きつけている。もう、誰も頼りにはならぬのだ。自分の事は自分で、うんうんと力まなければ生きてはゆけぬ。だが、東京で有名な詩人も、尾道では何のあとかたもない。それでよいのだと思う。私は尾道が好きだ。ばんよりはいりゃんせんかのう・・・魚売りの声が路地にしている。釣りたてのぴちぴちした小魚を塩焼きにして食べたい。
(中略)

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風琴と魚の町


(前略)
夜になると、夜桜を見る人で山の上は群がった蛾のように賑わった。私たちは、駅に近い線路ぎわのはたごに落ちついて、汗ばんだまま腹這っていた。
「こりゃもう、働きどうの多い町らしいぞ、桜を見ようとてお前、どこの町であぎゃん賑おうとったか?」
「狂人どうが、何が桜かの、たまげたものじゃ」
(中略)
「あれも、本ばよう読みよるで、どこかきまったりゃ、学校さあげてやりたか」
「明日、もう一日売れたりゃ、ここへ坐ってもええが・・・・」
「ここはええところじゃ、駅へ降りた時から、気持ちが、ほんまによかった。ここは何ちゅうてな?」
「尾の道よ、言うてみい。」
「おのみち、か?」
「海も山も近い、ええところじゃ」
母は立って洋燈を消した。
(中略)
曇り日で、雨らしい風が吹いている。
父は、着物の上から、下のおじさんの汚れた小倉の袴をはいて、私を連れて、山の小学校へ行った。

小学校へ行く途中、神武天皇を祭った神社があった。その神社の裏に陸橋があって、下を汽車が走っていた。
「これへ乗って行きゃア、東京まで、黙っちょっても行けるんぞ」
「東京から、先のほうは行けんか?」
「夷の住んどるけに、女子供は行けぬ」
「東京から先は海か?」
「ハテ、お父さんも行ったこたなかよ」

ずいぶん、石段の多い学校であった。父は階段の途中で何度も休んだ。
学校の庭は砂漠のように広かった。四隅に花壇があって、ゆすらうめ、鉄線蓮、おんじ、あざみ、ルビナス、つつじ、いちはつ、などのようなものが植えてあった。

校舎の上には、山の背が見えた。振り返ると、海が霞んで、近くに島がいくつも見えた。
(中略)

父と母が、「大阪の方へ行ってみるか」というふうなことをよく話しだした。私は、大阪の方へ行きたくないと思った。いつの間にか、父の憲兵服もなくなっていた。だから風琴がなくなった時のことを考えると、私は胸に塩が埋まったようで悲しかった。
「俥でも引っぱって見るか?」

父が、腐り切ってこう言った。そのころ、私は好きな男の子があったので、なんぼうにもそれは恥ずかしいことであった。いつか、その魚屋の前を通っていたら、知りもしないのに、その子は私に呼びかけた。
「魚が、こぎゃん、えっと、えっと、釣れたんどう、一尾やろうか、何がええんな」
「ちぬご」
「ちぬごか、あぎゃんもんがええんか」

家の中には誰もいなかった。男の子は鼻水をずるずる啜りながら、ちぬごを新聞で包んでくれた。ちぬごはまだぴちぴちして鱗が銀色に光っていた。
「何枚着とるんな」
「着物か?」
「うん」
「ぬくいけん何枚も着とらん」
「どら、衿を数えて見てやろ」

男の子は、腥(なまぐさい)手で私の衿を数えた。数え終わると、かわはぎという魚を指差して、「これも、えっとやろか」と言った。
「魚、わしゃ、何でも好きじゃんで」
「魚屋はええど、魚ばァ食える」

男の子は、いつか、自分の家の船で釣りに連れて行ってやると言った。私は胸に血がこみあげて来るように息苦しさを感じた。

学校へあくる日言って見たら、その子は五年生の組長であった。
(後略)

(2003年は生誕100年に当ります。)
年譜
1903年下関に生まれる。
1915年から1922年まで尾道に暮らす。尾道高女卒業。
1923年9月1日関東大震災に根津で遭う。
1951年48歳にて死去。

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